わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
幼稚園に通う2人の女の子が川で遊んでいる時、ダンボール箱が流れてきました。箱を開けてみると小さな仔犬が入っていました。
箱から出してあげると、その仔犬は同じところをクルクルと回ってばかりでした。この仔犬の目が見えなかったのです。
女の子たちは家に連れて帰りましたが、お母さんから「うちのマンションでは飼えないわよ。戻してきなさい。」と言われてしまいました。
仕方がないので仔犬を連れて川に来たのですが、仔犬が「クンクン・・・」と悲しそうなので、連れ帰って内緒でマンションの駐輪場で飼うことにしました。
ある日、帰ってみると繋いでいた紐が首に絡まって苦しそうにしていました。そこで管理人のおじさんのところに行って相談しました。
おじさんは話を聞いてなんとかしてあげたいと思い、マンションの人たちに集まってもらいました。
「この仔犬は目が見えないので、捨てたらすぐに死んでしまいます。子供たちと責任をもって飼うので、マンションの隅に犬小屋を置いて飼わせてほしい。」と訴えました。
しかし、集まった住民たちは「規則は規則だから」となかなか認めてくれません。
その時、女の子たちが「どうして助けちゃいけないの?盲導犬は目の見えない人を助けてくれるでしょ・・・それなのに人がどうして目の見えない犬を助けちゃいけないの・・・」と泣きながら叫びました。
その質問に答えられる人は誰もいませんでした。
一人の人が「わかりました」と言うと、賛成の拍手が湧き上がりました。
神様は私たちを決して見捨てることなく、諦めることなく愛し続けてくださっています。全力を傾け、罪に陥った人類を助け出そうと命がけで働きかけてくださっています。
そして、私たちの心に神様は「愛せる」ことを備えてくださいました。
「愛する」とは、愛する者に対して与える事も、犠牲を払うことも、時間も、そして命をも惜しみません。自分の事よりは相手のことを考えます。
神様は常に「愛」です。その真実を受けとめつつ、私たちは自らの意志で神様を信じ、救い主の差し出される御手に、自らの手を伸ばし、しっかり握りしめていただく事を望んでゆきたいと思います。