聖書の奇跡

奇跡は自然の法則に反しない(3)  :  聖書の奇跡

「奇蹟の定義は、それをなす人の物事の観点によって決まることである。おそらく水が葡萄酒に一瞬に変えられることが、純然たる奇蹟であるとうなずく多くの人は、熟したぶどうの中に甘い液が生産されるということは、「自然」の過程であるから奇蹟ではないと論ずるであろう。しかしある観点からすれば双方とも奇蹟なのである。有神論的な考え方においては、すべては超自然的なことである。すなわち、ある働きが瞬時的であれ、一過程であれ、すべてが神の働きである。

・・・・・・他面、もし自然のすべてが奇蹟、すなわち神のわざであるとすれば、神のわざは自然の通常の形式に限定されると想定する何の理由もないことになる。神は理知的で秩序正しいお方であるから、通常は定まった方法で行動されるけれども、みこころを表すためにわれわれの知らない方法で「過程を早める」自由をもったお方である。奇蹟を自然の法則の「違反」として語ることには、全くの錯誤が存するのである。神はご自分の法則を犯したまわない。」

(W・T・パーカイザー、キリスト教信仰の探求、福音文書刊行会、184-185頁)

神は自然の創造者ですから、自然を操作することは簡単です。

マリアの処女降誕はあり得ないと長年批判されてきました。しかし、生物によっては単性生殖が可能ですから、科学に反するとは言えません。人間も理論的には可能です。もちろん超自然的な力での妊娠もあり得ます。

イエスが水の上を歩いた奇跡は、確かに重力の法則に反しますが、人間がプロペラをつけて浮上できるように、重力よりも強い力が働いたら、人は水の上を歩けます。それがどうして非科学的でしょうか。

要するに、奇跡とは、科学に反するものではなく、科学的にも希に起こることが証明されているか、科学を超えたものなのです。科学が世の現象すべてを正しく解釈できていないのですから、人の常識に反するからといって、非科学的だ、あり得ないと断じるのは知恵が足りません。

神が全能であるならば、奇跡は極めて簡単です。