ある幼稚園で園児が教師に質問しました。
園児「せんせい、どんな おうちに すみたい?」
教師「お城みたいな大きなお家に住みたいな!」
園児「わたしは だいすきな ひとが いる おうちに すみたいな」
教師(心の声)「もう一回。もう一回だけ、先生に答えるチャンス頂戴!!」
はっきり言っておく。
心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
弟子たちはイエス・キリストのもとにいながら「信仰」とは何かを十分に理解していなかったようです。弟子たちの頭の中は、この中で誰が一番偉くなるかという事が優先し、信仰を養うのに大切な、愛、謙遜、柔和さなどが後回しにされていました。
そこで、子どもを通して彼らが勘違いしていることを修正し、方向転換しなければならないことをお示しになりました。
子どもは自分を優れたものとは思っていません。そして、自然に自分にふさわしい小さな事で満足します。単純で信じやすく、純粋で活動的です。そして常に愛し愛されることや受け入れられる喜びを求めています。
私の息子が小さかったとき、時々彼のおもちゃ箱を覗いてみることがありました。そこには決して高価なものが入っているわけではありません。つぶれたお鍋のふた、空気の抜けた風船、ティッシュペーパーの空き箱、お気に入りの黄色い小さな自動車、白いスプーン、そんなものが彼の宝物として他のおもちゃと共に入れてありました。それらで創造的に「遊ぶ」わけです。しかも大満足で・・・
また、子どもは無視される事に不安を感じ、受け入れられるためにわざと悪戯をして叱られることを選びます。本当は愛されることを求めているのですが、それがかなわいと思うと自分に気持ちを向けさせようと色々考えるわけです。それほどまでに求めるのです。
イエス・キリストはこの世の生涯において、子どもらしさを失わされることはありませんでした。飾ることなく神としての偉大さもあえてみせることなく子どものように無欲でありました。そして、この世の最も小さき者の僕のように生きてこられました。しかし、むしろ、そのようにして神の教会の主であられたのです。
今、自分自身を見つめ直してみましょう。幼子らしさが失われていないでしょうか?肩の力を抜いて、思い煩いは神様に委ねて、無邪気で、素直で、裏表のない今日を過ごしていきましょう。