牧師便り

愛の裁判官  :  久保 司 牧師
 

自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。

新約聖書・ヤコプの手紙2章12節(新共同訳)

「裁き」という言葉を聞いて、あなたはどの様な印象を持ちますか?

おそらく裁判所で被告として裁かれているシーンを想像する人が多いのではないでしょうか。「裁き」という言葉を聞くと何やら恐ろしいことが、自分の身に起こるような気がします。

しかし、これは勘違いなのかも知れません。なぜなら、聖書で語られる「裁き」は二通りあるからです。 一つは「有罪」を宣言されるもの、もう一つは「無罪」を勝ち取る事です。前者はキリストの救いと必要を拒否し最終的な滅びが報いとなり、後者はキリストの恵みを感謝し自らの罪を認め悔い改めることによって救いを得ます。

実は、救い主なる神(キリスト)は、全ての人類を救いたいと熱烈に望んでいるのです。聖書には

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節(新共同訳)

とはっきりと書いてあります。

私たちを裁く方は、私たちの仲保者であり、私たちを救うために命をかけ、私たちの代わりに罪の罰である死を受けて下さった方なのですから、親がわが子を愛する以上の信じれられないほど大きな愛を傾けてくださるのです。

神が私たちを裁く目的は、私たちを赦すためです。つまり神はどうにかして私たちを「無罪」としたいのです。

神の前に立つと正しい人など一人もいません。キリストとのかけがえのない関係のもとにイエス・キリストのなされた善き事が、キリストと共に永遠に生きてゆきたいと望むすべての人々に認められ、その手柄をされるのです。そこには私たち自身のどんな努力や善い行いを積み上げても、まったくそれらは取るに足らないのです。ただキリストの恵みによって救いが約束されるからです。

キリストの模範に心を向け、キリストの素晴らしさに気づいたものは、その素晴らしい価値に喜びを感じるはずです。つまり、義務とか、強制ではなく、自然にその模範に従うことに喜びを見いだし、心から望み求めるようになってゆきます。そして、それら善き業を行う事が特別な事ではなく、自然な事として生活の中で現わされるでしょう。

神の裁きは、私たちが天国で生きてゆく事ができるかどうかの適正を判断する事ではないかと思います。イエス・キリストを見つめ続け、自らを改めてゆけましたら幸いです。