『フィリポ、こんなに長い問一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
わたしを見た者は、父を見たのだ。』
イエス・キリストが歴史上の人物である事は今では常識的なことでどんなに懐疑的な歴史家も認めているところです。ところが、真の神であるということについてはなかなか認められがたいところがあります。実は、聖書にははっきりとイエス様が神であることが示されています。
初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
この「言」と言う語に注意してください。
「神であった」と書かれていますから、この「言」なる者とは誰かが解れば良いです。
言は世にあった。
世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
ここには明らかにイエス様の生涯が語られています。
さらに、決定的な事がこの章の後半に書かれています。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
他にも聖書は、イエス様が真の神であると数多く語っています。
神にだけ限定されて用いうれる名前や称号が数多くイエス様に適用されています。また、神にのみ捧げられる礼拝や祈りがイエス様に捧げられている場面も見ることができます。更に、神だけがもっておられる特性や力をイエス様はもっておられます。それは全知全能、創造と創造物を保ち守る事、裁き、癒しや復活させる力などがそうです。
そして、こうあります。
イエスは言われた。
『フイリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
わたしを見た者は、父を見たのだ。』
聖書の言葉を真実なものとして受け入れるのならば、イエス。キリストは紛れもなく神であるということが解ります。イエス・キリストは単なる人間に留まらず、まさしく神そのものなのです。
次回はなぜイエス・キリストは人になられたのかと言うことをお話しします