牧師便り

イエス・キリストとは誰ですか? Part3 ~なぜ人となられたの~  :  久保 司 牧師
 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節(新共同訳)

神であるイエス。キリストが、人間になられる事は決して不可能なことではありません。しかし、なぜ、イエス・キリストはあえて、人間となられたのでしょうか? しかも、特別な人間ではなく、ただの普通の人間、弱い人間になられたのでしょうか?

人間にならなければならなかった理由について・・・

まず第1に「罪人である私たちのために代わって死ぬため」です。
命の源であり、決して死ぬことのない神は、神のままでは私たちの身代わりとなって罪を犯した結果の死を受けることができません。ですから神はあえて、人となり、死ねる者となられたのです。

第2に「人類の模範となるため」でした。
私たち人間は罪をその心にあるかぎり悪の傾向が伴います。それによって様々な弱さが生じてしまうのです。
サタンはそんな罪人が救われることはないと主張します。しかし、神は私たちの中に可能性を認めてくださり、正しく生きることのできる希望があることを証明して下さいます。
罪を犯すことなく、私たちに代わって人生をあらゆる誘惑に勝利して下さることによって、人を救われる価値ある存在として下さいました。そして、人としてイエス様は、生きる模範となって下さったのです。更に、そのために、私たちを助け、支え、力を貸してくださる事を約束して下さっています。

第3に「人類との絆を結ぶこと」でした。
神である方が、あえて人となられることには、大きな犠牲が伴っています。それは一時的ではあれ、神としての立場を放棄しなければならなかったからです。なぜそこまでして、罪を自ら選んでしまった人類のために大きな犠牲を払われるのでしょうか?

それは、考えられないほどの大きな愛を神は私たちに注いでおられるからです。愛しているので、自ら私たちと同じ立場に身を置いてくださったのです。
私たちは、イエズ。キリストと共に父なる神に受け入れていただくのです。イエス。キリストとの絆なしには救いは考えられないのです。ですから、日々の生活をイエス・キリストと共に生きることを望み求めたいと思います。

次回はキリストの救いを前提とした「最後の審判」についてお話ししたいと思います。