新しい年を迎えると何か自分も新しくなったような気がします。一年の計は元旦にあり、と言ったのはそういう気持ちであるのかもしれません。日が沈み、日が昇りいつもと変わりないのに、年が違うというだけで、なにか違った決心をしています。
江戸時代いろいろな支払いをためていて大晦日を過ぎてしまえばなかったものにしてもらえる、という話が落語に出てきます。そのため大晦日に支払いを催促に来た人をどうにかしてごまかす、というところから面白い話がはじまって来ます。
年が改まるということは、いままでにやってきたことが新しくなるということがあるのかもしれません。
ユダヤ人にもそのような考えがありました。貧富の差がつかないようにするために、借金がチャラになる日というものがありました。その根本的な考えは、神様が全部許してくださるよ、ということにありました。
しかし、借金している人にとってはとっても良い話であり、福音ですが、お金を貸している方からしたら、たまらない話かもしれません。
聖書では、借金をしている人、負債を抱えている人が許される話が出てきます。今のお金で何十億円という借金をしている人が、その負債を許してもらえます。その許された人がホッとしていると、自分がお金を貸している人が目の前を歩いてきました。何十億円も許されたのに、その人は自分が貸している百万円を許すことができずに、貸している人を訴えて投獄します。
教会で語られることは何かというと、私たちはすでに何十億円もの負債を抱えていたのですが、それがすでに払われているという不思議なお話です。私たちが払わなければならないものも大きいです。それは命だからです。神様から離れている私たちは、すべての人が命を捨てなければならない状況にあります。ですが、その状況を変えるために、私たちのために、すでに価値のある物が支払われているのです。その価値あるものがイエス・キリストです。神の子であるイエス・キリストの命が私たちのために、すでに支払われているのです。
新しい年になったとき、その私たちのためにすでに支払われている何十億円、いやそれ以上の価値あるものについて考えるときとしてください。