牧師便り

神が私のそばに来られた  :  久保 司 牧師
 

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

フィリピの信徒への手紙2章6~7節(新共同訳)

人となられた神

なぜイエスは人間にならなければならなかったのでしょう。

第1に「罪人である私たちのために代わって死ぬため」です。
命の源であり、決して死ぬことのない神は、神のままでは私たちの身代わりとなって罪を犯した結果の死を受けることはできません。ですから神はあえて、人となり、死ぬ者となられたのです。

第2に「人類の模範となるため」でした。
人間は罪を心に持ち、罪の傾向があるゆえに、サタンは人間が救いを得ることは絶対不可能であると主張します。しかし、神は私たちの中に可能性を認めてくださり、正しく生きることができる希望があることを示して下さいます。

イエスは、罪を犯すことのない人生を人間として送られることによって、人間が救われる価値がある者として下さいました。そして、私たちの模範となって下さったのです。もちろんそのために、私たちを助け、支え、力を貸してくださる事を神は約束して下さっています。

第3に「人類との絆を結ぶこと」でした。
神であるお方が、あえて人間となられることには、大きな犠牲が伴っています。それは一時的ではあれ、神としての立場を放棄しなければならなかったからです。

なぜそこまでして人類のためにそんな大きな犠牲を払われるのでしょうか?
それは、私たちに対する考えられないほどの深く大きな愛を持っておられるからです。
そんなイエス・キリストだからこそ神と人類の間に立ち、仲保の働きをすることが出来たのです。

仲保者キリスト

仲保とは仲違いをしている両者の間に入り仲裁をすることです。

イエス・キリストの仲保の働きは、神であり、人であるという立場により罪によって断絶されている神と人との架け橋になる事です。神様はこのことについて非常に関心を寄せておられ、積極的に仲裁を求めておいでです。なぜならば、神であるイエス・キリストご自身がこれ以上ない犠牲を払いつつも、人類の立場に立って必死で私たちを弁護し、赦し、救おうとされているからです。

問題は私たちの側にあります。神との断絶を招いたのは人間の側でした。そんな人間に神は信じられないほどの愛をもって、どうにかして救いたいと願っておいでになります。神から歩み寄り、私たちの中に入ってこられ、その関係の回復を全てお膳立てして下さり、ただただ私たちが神の救いの約束を真心から受け入れさえすれば良いほどに整えて待って下さっています。

さて、私たちはそんな神の気持ちにどれだけ応えることができるでしょうか。