牧師便り

イエス・キリストとは誰ですか? Part4 ~最後の審判の裁き主~  :  久保 司 牧師

「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。

新約聖書・ヨハネによる福音書5章22節

罪の歴史には必ず終わりが訪れます。最後に審判が行われるので、いつまでも罪がそのままにされていることはありません。

神様は可能な限り時を与えて下さっています。しかし、いつまでもその時が延ばされる訳ではありません。
「最後の審判」という言葉を聞くと何やら恐ろしいことが起こるような気がします。
しかし、これは大きな勘違いなのかも知れません。
なぜなら、私たちを裁く方は、私たちの弁護者であり、私たちを救うために命をかけて下さった方なのですから。イエス様は、考えられないほどの大きな愛を常に全人類に与えて下っています。

神様が私たちを裁く目的は、なんとかして私たちを赦す事です。
神様の前に正しい人は一人も居ません。イエス様とのかけがえのない関係のもとに彼のなされた良き事が、彼と共に永遠に生きてゆきたいと望む全ての人々に認められ、その手柄とされるのです。
そこには、私たち自身の行いはありません。ただイエス様の恵みによって救いが約束されるのです。

ここで、私たちはもう一つの勘違いに気をつけなければなりません。
確かに、私たちの救いは神様からの恵みの結果です。しかし、だからといって成長しようとする努力や犠牲を否定したり、おろそかにして良いという事ではありません。
むしろ、イエス様の模範に心を向け、イエス様の素晴らしさに気づく者は、その素晴らしい価値に喜びを感じるはずです。
つまり、義務とか、強制ではなく、自然にイエス様の模範に従うことに喜びを見いだし、心底それを望むようになってゆきます。そして、良き業を行う事が自然な事となり、更により良いものを求めて行くと思います。
ですから、イエス・キリストと共に生きる人は、常に成長し続けてゆくのです。

「最後の審判」は、私たちが天国で永遠に存在してゆくことができるかを適正判断することではないかと思います。そのためには罪を弄んだり、罪を喜び楽しむことから離れてゆきたいと子ことから願うことが必要です。
「最後の審判」について聖書を通し私たちに告げられている事は、大きな恵美です。その日その時がいつなのかは解りませんが、備えをしながらイエス様の再臨を待ちましょう。