久保 司 牧師

終末に備える事の幸い  :  久保 司 牧師
 

真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。

新約聖書・テモテヘの手紙Ⅰ 6章19節(新共同訳)

現在、私たちの住む地球は様々な問題を抱えているように思います。環境問題、道徳の低下、犯罪の低年齢化、健康問題、人口増加、飢餓や干ばつ、戦争、感染症の拡大など、そんな不安や恐怖から引き起こされる「嫌悪、差別、偏見」などが人々の心や家庭、社会に感染し、分断されていくことなど、数え上げればきりがありません。
誰もが皆、この世の終わりを心のどこかに意識しながら、あえて思い出さないようにして毎日の営みを続けているように見えないでしょうか。

さて、様々な不安の中、聖書が語る「終末論」は世の中で語られている「終末の不安」とはずいぶん違っています。むしろ、聖書は人類を苦しめてきた「罪の歴史の終末」という意味で、私たちに希望を与えようとしています。
その希望こそが、イエス・キリストが再びこの地上に来られ、私たちを迎えてくださるという「再臨」なのです。「キリストの再臨」は、罪の歴史が終わることと、そこから新しい歴史が始まることを私たちに伝えています。

実は、「再臨」について、聖書全体では千五百回以上(新約聖書に三百回以上)述べられていますが、この出来事が、あなたにとって幸いである事を願っております。
宗教改革者マルティン・ルターは、終末に望む思いを、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」という言葉に表しました。
この言葉には、私たちがなすところの日々の備えの大切さが示されています。ルターは、過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない時であることを知っていました。そして常に彼の生活そのものが天国への備えであったのです。今日も明日も変わりなく「備える」事を当たり前に生きるのだ。そして救い主を日々待っていると言うのです。

キリストをお迎えする準備と経験は決して形ばかりを整えようとすることでもなければ、感情的な興奮でもありません。実に、日々の生活の中にそれはあり、私たちが営む生活そのものがキリスト再臨の備えでありたいと思います。
私たちは、やがて罪の歴史の終わりを迎えます。神様はその時が近いことを聖書を通して教えて下さっているのです。