牧師便り

塩加減  :  山口 豊 牧師

私が一人で暮らしていると、食事はどうされているのですかとご質問を受けます。外食か自炊かしかありませんから、外食の時以外は自炊しておりますとお答えしています。

私の母方の祖父母は、新宿で自然食レストランを営んでおりました。小さな頃から厨房に入っていたおかげかわかりませんが、小学生の頃から台所に立っておりました。料理といっても、ラーメンを作ったりするぐらいでしたが、小学校の頃の夢はラーメン屋になることでした。

何回も料理をしていますと、うまくいくときもあれば、そうでない時もあります。そういった失敗がないように料理本や、料理番組では、調味料の量などを細かく書いてありますが、めんどくさいので、目分量でやっておりました。目分量は料理のうまい方は経験で同じ分量を入れることができるので、一定したおいしい味付けができます。ただのめんどくさがりですと、味付けにばらつきが出ます。とくに塩加減が難しいです。塩加減は、少なすぎても物足りないですし、多すぎたら食べられたものではありません。料理の要は塩加減と言ってもよいでしょう。おいしくできた時の塩加減を覚えておけば良いのですが、そこは一期一会の塩加減になってしまいます。なので、料理は苦ではありませんが、得意とは言えないのです。

聖書にも塩が出てきます。昔から私たちの生活に欠かせないものでした。栄養学的にも適度に塩分を摂取することは必要です。

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」この個所を読むといつも、塩気のなくなった塩は存在するのだろうかと考えます。私はこの塩の塩気とは、人間に元から与えられている「人を愛する能力」ではないかと思います。

私たちは、人を愛することを教わるわけではありません。ですが誰でもそのことをすることができます。人間からその能力を取ることはできません。なので、塩気のなくなった塩がないのと同じように、人間から愛するという能力を取ることができないと思います。

なぜわたしたちが人を愛することができるのか、それは、わたしたちがすでに愛されているからです。聖書はそのことをわたしたちに教えてくれます。聖書の中からそのことを見つけてみてください。