牧師便り

死を越える時  :  久保 司 牧師

「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

新約聖書コリントの信徒への手紙一 15章54~55節

中学生の頃、なぜ僕は存在しているのだろうかという素朴な疑問を持つようになりました。「存在」ということを考えている内に、なぜ人間は生きているのだろう。なぜ人間は死んでしまうのだろうという疑問もわいてきました。でも、いつも決まって、そんな難しいことを考えていると、不安な気持ちになり、考えることをやめようと思うのでした。

ある日、人間の死について、どうしても考えざるを得ない事態が起こりました。母が交通事故で突然亡くなってしまったのです。母の遺体を前にして、自分の目の前でいったい何が起こっているのか、訳がわからず、心の中で事態の重要さを自分自身に言い聞かせていました。その後、我に返った時、激しい悲しみと不安が襲ってきました。中学2年の秋の出来事でした。

母が亡くなって十ヶ月後、私は教会に居ました。

聖書を通し、「死」について学ぶ機会が与えられました。死が眠りと表されている。これはどういうことだろう。もし死が眠りであるなら起こされるはずだ!心に灯りが点ったような気がしました。(お母さんに再会できる(^_^))聖書の御言葉によって、当時私は本当に励まされ、希望を持つことができました。死は永遠の滅びでなくなり、神様は私たちに再び命を与えてくださる。愛する人と再会することができ、永遠の時を過ごすことを約束してくださっています。

十字架は、私たち人類の罪を贖うためにその命を犠牲として下さったイエス・キリストのとてつもなく深く、高く、広い愛を示しています。死をも超えて、新しい命と完全な身体を再創造して下さる保証でもあります。

それが実現するのはイエス・キリストの再臨の時であり、実に全人類にとって大いなる希望、神の愛による恵みです。