久保 司 牧師

心の動機は愛でありたい  :  久保 司 牧師
 

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

新約聖書・ローマの信徒への手紙5章8節(新共同訳)

聖書には、私たちの全ての思いや行いの基礎は「愛」であると示されています。それから外れると、たちまち様々な問題が生じてくるのです。

例えば、「怒る」事と「叱る」事は似ているようで異なるものです。

「怒る」とは自分の感情を外に爆発させることであり、「叱る」とは相手により良い方法を教示することです。「怒る」場合、感情的に相手を否定し傷付けますが、「叱る」ばあいは相手の事を心に留めて助けようという気持ちが込められます。つまり、心に「愛」が働く場合、たとえ厳しいものであったとしても、その心意は伝わるものです。親は子を叱ります。そこに「愛」があるので子どもは親を慕うのです。

「愛」が心の基にあるならば、きっとこの世界は素敵な状態になっていくでしょう。しかし残念な事に、この世界には多くの悲しみが存在しています。私たちの心にも完全な「愛」は無く、純粋で完全な「愛」は「罪」によって傷つけられ、弱められ、歪められたものになってしまいました。

ですから神様からの愛を補ってもらい、真の「愛」とは何かを学ぶ必要があります。

愛されていることで愛せる

私たちが互いに愛し合うとき、打算的な思いを持って人を愛しているでしょうか?そもそも「打算的な愛」などというものは存在しないはずです。それは本当の「愛」ではく偽物だからです。本当の愛に出会わない限り、私たちは「愛」が何であるかがわからず、試行錯誤ばかりしてしまい、結局のところ自分本位の「愛」に妥協してしまいます。

本当の「愛」を知るには、神様が私を愛して下さっている事を知る事です。神様の本質は「愛」であり、全ての動機は「愛」に基づいています。

 

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

新約聖書・ヨハネの手紙一 4章19節(新共同訳)

私が神様を見出し愛さないと、神様は愛してくれないのではありません。まだ私たちが神様を知らなかった時から、すでに神様は私を愛し続けて下さっていたのです。その愛を受けることにより私たちの心に愛が湧き出してくる。愛してもらうことに対して心が反応するのです。真実な「神の愛」は私たちの心を潤し、呼び水のように私の中の「愛」を呼び起こします。神様と私の間に生じた愛は、人間同士の愛へと発展し、真の幸福を感じることができるはずです。