久保 司 牧師

救い主  :  久保 司 牧師

「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」

新約聖書ヤコブの手紙4章8節

ある日、教会の子どもクラスで教えている先生が子どもたちにこんな質問をしました。
「手が汚れてしまったら、君たちはどこへ行く?」
「水道の所へ行って手を洗うよ」
「では、誰かにいじめられたらどこへ行く?」
子どもたちは少し考えこんで・・・「お母さんのところ」と答えました。
「じゃあ、いたずらしたらどこへ行く?」
子どもたちはじっと下を向いたまま考えこんでしまいました。
人間は悪いことをすると心のどこかで、絶対的な審判者の存在を恐れ、本能的に身を避けようとします。これは人類の祖先アダムとエバが堕落してしまったときからそうでした。

旧約聖書・創世記3章8~9節を見てみると、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間にかくれると、主なる神はアダムを呼ばれた『どこにいるのか』」とあります。それから罪と死の支配する人類の放浪がはじまったのです。
しかし、ここに素晴らしい計画がたてられました。それは神のひとり子であるイエス様が救い主としてこの世に来られるということでした。

新約聖書・ヨハネによる福音書1章18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子である神、この方が神を示されたのである」とあります。イエス様を知ることが、神を知ることになるのです。
イエス様は、私たちを神様に近づけるために、十字架で、私たちの罪を身代わりに負ってくださり、死なれました。私たちは、このイエス・キリストによってその罪が贖われ、神様に近づくことが赦されることになりました。
花瓶に飾られている花を見て下さい。私たちはちきっとあのように飾られている花のようです。花瓶には水が張られ、そこに根から切り離された花がさされています。あの花のように私たちは命の源である神様から罪によって切り離されてしまっています。限りある命を咲かせているわけです。
花瓶と水は神様から与えられる恵みです。まるでイエス様のようなものです。しかし、花瓶から抜き取られたら、あるいは花瓶の水が涸れてしまったらどうなるのでしょう。間もなく力尽きて萎れてしまうでしょう。同様にイエス様から離れるならば私たちの心も力を失い、やがて滅んでしまうでしょう。
私たち自身は罪に汚れた存在ですが、そのありのままの姿で、イエス・キリストを通して、神の愛に包まれるときが来ているのです。